くろの
くろのです。こんばんは。
決戦の水曜日、無事に終わりました。
そしてありがたい事にその場で採用を決めて頂けました。
あれから12時間近くたちますが、いまだに信じられません。
僕が今回オファー頂いた会社はかなり有名で、大きな会社です。
それこそ逆立ちしても入社する事は叶わなかった会社だと思っています。
不可能を可能にできた要因は、間違いなく僕の周りの皆さんのおかげだと思っています。
詳しい話は退職エントリにて触れることとして、今日は僕の半生を語らせてください。
結構ダークな内容ですので、見たくない方はブラウザバックをお願いします。
改めまして。まずは僕の生い立ちを赤裸々に語りたいと思います。
スペック
- 年齢
- 36
- 生い立ち
- 埼玉県某所にて誕生
- 学歴
- 大学中退
小学校時代
小学校6年の冬、下校したくろの少年が見たのは見知らぬ大人数名と、気を失った父親でした。
見知らぬ大人はどうやら父親の知己だったらしく、すぐに病院に救急搬送されました。
また、それと同時に家に一人になってしまうため、僕は一時保護所に送られました。
中学~高校
一時保護所で母親を選ぶか叔父夫婦を選ぶかの選択を強いられましたが、僕は後者を選ぶことになります。
今思えばどちらを選んでも地獄だったのでしょう。
さてこの叔父夫婦、どうも父親に並々ならぬ恨みがあるらしく、くろの少年は格好の復讐対象に選ばれてしまいました。
この頃された仕打ちと言えば、
- 食事1ヶ月抜き(給食でしのぎましたが土日はいなくなった隙に冷蔵庫から強奪)
- 空手有段者の従兄弟による殴る蹴るの暴行(顔以外は痣だらけでした)
- 休日の外出禁止令
- 毎日のように両親への呪詛
- 雨が降っている日は家から閉め出すことが何度か
と、言う事を中1の3学期頃まで行われていました。
完全に児童虐待…。
ちょっと死にたくなったのを思い出しました。
父が喉頭ガンで亡くなったと同時に、僕を虐めるのにも飽きたのか、そこから本格的に養護施設に送られることになります。
中2からはこの叔父夫婦から離れ、学業もスポーツもそれなりこなす様になることが出来ました。
俗に言う施設っ子でした。
ただ、普段できない経験や、もっと酷い生い立ちの子供たちを見て、自分はまだ恵まれてる方だと気づくことになります。
下を見てもキリが無いのですが、その頃の僕よりもっと不幸な子供たちの笑顔に今でも救われていると思います。
余談ですが、施設時代に論文を書いてサンフランシスコに無償で行かせてもらったりもしました。
これは施設に入っている高校生限定のイベントでした。
そして歳の離れた兄が息を引き取ったのもこの頃でした。
大学入学から中退まで
父親の残してくれた遺族年金と、養護施設にいる青少年限定の奨学金(返還義務なし)のおかげで大学に通うことが出来ました。
しかしこの遺族年金の管理は叔父夫婦が行っていました。
大学4年間の学費+家賃位は余裕であったはずが、2年目の授業料支払いの時に何故かくろのの名前で借金をすると言いました。
今でこそ色々見えてきますが、当時は僕たち一家の遺族年金を事業費用に充てたようで、一銭も残っていないようでした。
3年目の学費支払いになった時にそんな金は無いとボロを出します。
それと同時に借金の督促が21になったばかりのくろの青年を襲い掛かります。
いや~ほんと借金取りって怖い。
アルバイト~派遣時代
上述の理由により大学を諦め、正社員を諦め、結婚も、普通の生活も、何もかも諦めました。
その理由は、当時は今ほど雇用も無く、アルバイトですら中々なかなかつけない時代でした。
ましてや大学中退は下手をすれば高校卒業よりも印象が悪く、正規雇用なんて夢のまた夢でした。
正規雇用でなければ結婚もできないし、常に不安定な人生を余儀なくされると思っていました。
アルバイト時代は有給休暇と言うものに憧れました。
派遣社員時代はボーナスと言うものに憧れました。
ああ、後、打ち合わせと言うものにも酷く憧れた覚えがあります。
何でだろう・・・。
とにかく当時は生きることに精一杯でした。
子供のころから普通の家庭を切望してたのも思いだしました。
大学を辞めてすぐ、住んでるアパートを引き払って後見人の家に転がり込み、家賃を節約しつつ返済に充てました。
その頃の生活も物凄く地獄でした。
仕事中、僕の荷物を毎回叔母が漁るのです。
そして謎の中傷じみた書置きを残していく毎日。
それでも諦めずハローワークに通いながら、正社員の応募をしつつ返済に努めました。
5年間で200社程受けましたが、面接にすら進めず…。
その後ブラックではあったものの、最初の正規雇用を獲得することに成功しました。
借金完済及び正社員への道が開けたタイミングでこの家と本格的に縁を切ることになります。
その後
正社員になったと同時に叔父夫婦の家を着の身着のまま出てきてしまった為、最初は電灯もテレビも冷蔵庫も洗濯機もカーテンもない、万年床のみの六畳一間のアパートからのスタートでした。
それからの生活も順風満帆ではありませんでしたが、基本的に当時周りにいて助けてくれた人が居た事、絶対諦めなかったことが今に繋がっているように思えます。
あれから10年経ちますが、今では空腹で泣くことも無いですし、寂しさを感じることもありません。
自分より幸せな人を見ても疎ましく思うこともありません。
これが人並みの幸せというやつなのでしょう。
謝辞
昔隣にいてくれた人たち、今でも一緒にいてくれる人たち、力を貸して下さる人たち本当に感謝です。
上述の会社にもここまで細かくは伝えてませんが大学を辞め、アルバイト時代が長かった事は素直に伝えてます。
それでもオファーを頂けたことにも感謝です。自分で言うのも何ですが、そんな大手の会社が本当にいいの?と言う感じです
また、この全てを知って尚、僕を受け入れてくれ、第二の人生をくれた妻には言葉もないほど感謝をしてます。
人生悪い事ばかりではないし、良い事がその分あるかと言えば絶対ではないと思います。
しかし教訓として、諦めずコツコツやっていけばすこーしずつでも上向くという事を証明できたかと思います。
何となく苦境に立たされている若い人たちの励みとなるよう、敢えて赤裸々に書き綴ってみました。
フィクションっぽく物語見たいと思うかもしれません。
そう思われたなら仕方ないと思います。
ここまで読了頂いた読者の皆様にも感謝を。
余談
上述の叔父夫婦ですが、叔父が亡くなった後、どうやら他にも借金をしていたようで、家屋敷を取られ悲惨な生活をしていると聞いています。
因果応報ってやつですね。
その事実を知ったので報復しようという気もありません。
また、縁を切った事で自分の運勢が上向いた事を実感しています。
妻の姓になる事で完全に縁は切れたと思っています。
縁を結ばない事が最大の復讐です。
完全に独白というか、チラ裏の内容ですね…。
明日からは改めて通常営業(?)に戻りたいと思います。
ではまたっ!